淡い期待

「ジェーン、欲しいものはないか?」

午前中のお仕事が終わり、ランチにしようとお弁当に手を伸ばした頃。
わたしの上司、ニーズヘッグ首相がお声をかけてくれました。

あまりに突然の言葉に、少し驚きながらも必死に考えてやっと見つけた、わたしのほしいものを手に取ったのです。

「そう、ですね…。特段欲しいものはないのですが、強いて言うならば、そろそろ万年筆を変えようかなと」

入庁した頃から使っている万年筆。
首相秘書の制服にあわせた、濃い紫の軸に銀のクリップやニブ。

ニーズヘッグ首相と同じ色使いの違うデザインで自分には少々背伸びしすぎたかな…なんて思っていました。

他の省庁の秘書が持つ万年筆を見てみると、制服のデザインとは関係なくみなさんによく似合う万年筆を手にしていました。

それがわたしには羨ましくて、早くわたしだけの万年筆がほしいなってぼんやり考えていたんです。

白くなめらかな、まるでミルクを固めたような軸。
所々にあしらわれる金属の色は、ピンクゴールド。
ワンポイントには赤いルビー。

もふもふはしてないけど、まるでうさぎのような万年筆。
いつかリリスのお店で見かけて、憧れ続けた万年筆。

あのきらめきを心に描きながらお答えしたせいかしら。
首相のお顔は少しさみしそう。

「あ、あの…首相、どうかされましたか」

おそるおそる首相に尋ねると、はぁ、とため息をついてしまいました。
そして左手でお顔を隠し、わたしにまた問いかけられた。

「ジェーン…その万年筆が気に入らないのか?」

「えっと…この万年筆、とっても書きやすいのですが、わたしには少し大人すぎる気がしまして…」

「大人すぎて、何だ?」

「わ、わたしには…似合わないと思っていました…」

きゅっと万年筆を握り、しぼり出すようにこの想いを首相へ告げました。

お側に控えるにはわたしは子どもすぎないか、わたしという秘書は首相に似合わないのではないか、そんな不安を込めて。

たまに同じ質問をすることがあります。
どうしても不安で、確信がほしくて。
だっていつも首相は、困ったような笑顔でわたしを元気付けてくれるのですから。

まだまだ経験は足りないかもしれない。
しかし、君は伸びる。
心配なぞする必要はない。

でもこの日は、なんだか様子が違いました。

がっかりしたというか、寂しいというか…?
そんな様子の首相がわたしにかけた言葉は、やっぱりいつもと違いました。

「その万年筆は…私がデザインしたものなのだが、君の心には響かなかったようだな」

私のとよく似た万年筆をくるくると回しながら、首相は私に笑いかけられました。

あぁ、なんてことを言ってしまったのだろう。
きっと嘘でも好きなデザインと言うべきだったわ。
今でもこのことは後悔しています。

わたしがあわあわとしていると、きっと首相もわたしの気持ちにお気づきになったのでしょう。

ふう、とため息をついてスケッチブックと一冊の本を取り出されました。

「本当は驚かせようと思ったのだが…」

そう仰って取り出した、シンプルなカレンダー。
そこには、首相個人ではお持ちにならなさそうなうさぎのシールが貼ってありました。

「あれ?これは…」
「あぁ、君の誕生日だ。プレゼントを用意しようと思ってな」

ぱらぱらとめくられたページには、万年筆のパーツがたくさん並んでいました。
カスタムカタログだったのです!

いつかリリスで見た、あの万年筆。
それよりも素敵な万年筆を首相がデザインしてくださるのかしら。

不安でいっぱいだったはずなのに、わたしはいつしかどきどきしながらページをめくる首相の指を眺めていました。

「わぁ…素敵なパーツがたくさん載っていますね。もしかして首相がデザインしてくださるんですか?」

「私が手がけてもいいのか?その万年筆と似たようなデザインになるかもしれないが」

「あ、えっと…それは、その…」

お話ししていくうちに、首相はいつもの少し意地悪な、でも優しい表情に戻られました。

「この万年筆は、制服をイメージにデザインしたからな。君に合うデザインでないことなど分かっている」

制服が私に似合わないということでしょうか…。
今度はわたしががっくりと肩を落とし、首相にコーヒーを淹れるために席を立ちました。

執務室にコーヒーの香りが漂い始めたころ。
首相がスケッチブックに万年筆を走らせる、サラサラという音が響くようになりました。

幾重にも線を重ねる音。
短い単語を連ねる音。
次第に重なる、コーヒーの雫が落ちる音。

それはとても心地よく、優しい時間。

思わずわたしは目を閉じて、雫の落ちる音が止むのを待っていました。

「…ジェーン」

低くて柔らかくて、少しひんやりとした声がまぶたの上から降ってくるのを感じます。

あぁ、なんて心地よいのかしら。
ふわふわとした意識の中、わたしはその声に耳を傾けました。

「ジェーン」

何度か聞こえるわたしの名前。
…あれ?だんだん大きくなってる?

「立ったまま眠ってどうするのだ、ジェーン」

いけない、うとうとしちゃった…。

目を開けると、首相がわたしの顔を覗き込んでいて、一歩でも歩み寄るとキスしてしまいそうでした。

わたしはびっくりしてコーヒーへと向き直り、すっかり雫も落ちなくなったフィルターを外してカップを首相にお渡ししました。

「デザインならもう完成している。あとはオーダーするだけだが…見るか?」

首相がスケッチブックをパラパラとめくると、たくさんの万年筆のデザイン画が描かれていました。

どれもきっと、わたしを思って描いてくださったもの。

わたしはこのまま出来上がりを待って、誕生日を首相と一緒に過ごす約束をしました。

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「それが、ちょうど1ヶ月前なの。あれからすぐ職人に頼んで、昨日の誕生日に首相からプレゼントしていただいたの」

市庁舎付近のカフェで偶然出会った友人のニキとポポ、それからモモ。

ニキとポポはわたしの胸ポケットに光る万年筆が、今までと違うことにすぐ気がついてくれた。

白い木で造られた軸は優しい手触りで、陽の光を受けて柔らかな暖かさを持っている。

クリップはピンクゴールドで、うさぎモチーフにした細工が施されているけれど子どもっぽくはなく、とても上品な仕上がり。

首相がわたしのためにデザインしてくださった、世界に一つだけの逸品。

「その万年筆、ジェーンによく似合うわ。お誕生日、おめでとう」

優しい微笑みを浮かべるニキ。
偶然会っただけなのに、祝いの言葉をかけてくれるなんてなんて素敵な1日なのかしら。
ポポは興奮した面持ちでわたしの手を握り、「首相様とのお話、もっと詳しく!!」なんて。

「ふふ、羨ましいでしょう」
「ほんっとに!!私も公務員になればチャンスが…!」

「…ポポじゃ、まず受からないにゃ」
「なんですってー!!」

ポポとモモが言い争うのをニキと眺めながら、わたしは三人が注文してくれたケーキに手をつけました。

優しい甘さが心を満たし、思わず笑みがこぼれてしまいました。

これからもこんな風に、首相やニキ達となんでもない日々が過ごせるといいな。