小さな嘘
小さな嘘をついた。
「姉上。僕、赤い薔薇が大好きです」
こう言って姉上に笑顔を向けると、彼女は僕の頭を撫でながら嬉しそうに答えてくれるのだ。
「ええ、本当にその通りね。ロイス、あなたには赤いバラがよく似合うわ」
透き通りそうなほど白い指が自分の神に触れるたび、嬉しさと罪悪感にも似たような感情がじんわりと心の中に広がる。
だって自分は、深紅の薔薇が好きではないのだから。
姉上が大切にしている薔薇園に咲き誇る、真っ赤な薔薇。
血のような色に、濃厚な甘い香り。鋭い棘。
それらは子供の頃の自分にとって恐怖の対象であり、「姉上に褒めてもらいたい」という一心で紡ぐ嘘だった。
街中の、市民の子供であれば可愛らしいエピソードとして終わるものだ。
しかし自分は一国の王子。幼い頃からその自覚を持つよう叩き込まれている。
姉であると同時に、リリス王国の女王である彼女に逆らうことはできなかった。
それは彼女がクローカを連れてきたときも同じだった。
自分より6つほど下の少女を護衛にするなど、いくら平和を愛する国とはいえ一国の王子に対する処遇ではない。
ある晴れた日、いつものようにクローカを庭園へ連れ出した。
彼女は太陽の光が苦手と聞いているが、自分の見ている美しい世界を一緒に見てほしい気持ちでいっぱいだった。
姉上の薔薇園は避け、お気に入りの白薔薇の庭園や季節の花で彩られた庭園にクローカと足を運び、いつもそこで遊んでいた。
今日は確か、姉上が薔薇園に行く日。庭師は黙っていてくれているが、姉上にこの冒険が見つかると部屋に閉じ込められかねない。
咄嗟にクローカの手首を掴み、薔薇園の先へと駆け出した。
「薔薇園はやめて、この先の花畑にしよう」
そう都合よく花畑があるのか、実は当時の僕は知らなかった。
しばらく走ると息が切れ、僕はその場にへたり込んでしまった。
「もう、走れない…」
「普段の鍛錬を怠るからです」
「クローカは…きつくないの…?」
「はい」
涼しい顔で、機械のように話すクローカ。
何とかして彼女の氷を溶かしたい。
その一心で、僕はよろよろと立ち上がり、歩き始めた。
しばらくすると、小高い丘が見えた。
確かその先は湖のはず。
部屋から見下ろす風景を思い浮かべながら、頂上を目指した。
「あと少しだよ、クローカ」
「この先には何があるのですか?」
「秘密だよ。着いてからのお楽しみ」
クローカにウインクをして見せた。
彼女は少し嫌そうな顔をしていた。
頂上に着くと、ふわりと風が吹き上げた。
たくさんの花びらが舞い上がり、風とともに過ぎ去っていく。
恐る恐る目を開けてみると、眼下には様々な色彩が広がっていた。
花の形はどれもよく似ている。
「ロイス様…あの花は…?」
陽の光の下で眩しそうだが、クローカは珍しく花に魅入っている。
「アネモネっていうんだよ。風の花って意味なんだって」
庭師に教わった話だ。きっと真実だろう。
そよそよと風に揺れる可憐な花々。
もっと近くで見ようとクローカが駆け下りた。
「ロイス様、アネモネは…様々な色があるのですね」
「うん、気に入った色の花はあるかい?」
「はい…青と、紫が」
クローカらしい選択だった。
赤やピンクのような色を好まない事は予想していたが、ここまで当たるとは思わなかった。
思わず笑い出してしまった僕に、怒ったようにクローカが声をかけた。
「何がおかしいのですか」
「いや、あまりに予想通りすぎて。でも、色もだけど花言葉も君によく似合うよ」
青いアネモネは「堅い誓い」。
紫のアネモネは「信じて従う」という意味がある。
リリス王族に忠誠を誓うクローカらしい花言葉だ。
花言葉を教えると、クローカは一層嬉しそうな顔をした。
まさかこの花言葉が彼女の氷を溶かすとは…。
クローカと対照的に、僕はがっくりと肩を落とした。
ふとクローカが僕の方へ振り向いた。
「ロイス様、ありがとうございます。私、この花が好きです」
自分だけに向けられた、心からの言葉。
少しだけ頬を染めた笑顔。
僕の心にかけた偽りのベールを、彼女は一つ残らず剥がしてしまった。
それが少し、くすぐったかった。