Lycoris

月が輝きを失い、紅く染まる夜。
クローカは一人、自室で月を眺めていた。

月夜の姫君。

いつからか、城に勤める者から
私はそう呼ばれるようになったらしい。

かつて「あのお方の最も鋭い剣」と呼ばれて、多くの人から恐れられていた。
けれど、太陽の輝きを持つ鞘に収まった剣は、その鋭さを隠し「美しい剣」と呼ばれるようになった。

それが今では「太陽の光を受けて淡く輝く、月の光」と呼ばれ、親しまれている。

きっと、以前の自分では想像することはできないだろう。
もし、変わらない日常を過ごし続けていたのなら私はどんな暮らしをしているだろう。

側に置いていた紅茶に口をつけ、溜息をこぼす。

***

私はリリス王国ではなく、カルファ王国で生まれた。
両親は私をとても愛してくれた。
慎ましくも温かい二人に包まれた日々は、幸せそのものだった。

「クローカはとっても賢いから、将来は学者さんかしらね」
「いやいや、私に似て森を愛し、よく動けるんだ。冒険家もいいかもしれないぞ」
「まあ、可愛いクローカが冒険だなんて!」

そうやっていつも、二人は私の未来を楽しそうに語っていた。

ある日のこと。

いつものように森へ遊びに行き、空が赤く染まる頃、私は家路に着いた。

「ただいま」

声をかけながら扉を開ける。

母の柔らかな笑顔に「おかえり」の声。
時折父が待っていることもあった。
そして、テーブルでは温かい夕食が待っている。

そんな特別でも何でもない、幸せな瞬間が訪れることはなかった。

そこには何もなかった。
幸せのすべてが、なくなっていた。

それでも私は、二人は帰ってくると信じてしばらく待っていた。

私を探して森に行っているのかもしれない。
母が父を迎えに行っているのかもしれない。
二人で私を探しているのかもしれない。

暖炉に火を灯し、薄明るくなった部屋の中。
ぐるりと見渡し、見たくないものを見て私は絶望した。

廊下や玄関に赤い雫が落ちている。

不思議と全てを悟ってしまい、私は絶望した。
両親はもう帰ってこない。
だってもう、この世にもういないのだから。

絶望の次に沸き起こったのは、怒りの感情だった。
なぜ両親が殺されなければならないのか。
誰がこんな酷いことをしたのか。

怒りに任せて、警察のもとへ駆けた。
しかし、それは徒労に終わる。
まともに取り合ってくれることはなく、幼い私は追い返されてしまった。

身を寄せてくれる人を探せ、と。

そんな人はいるはずもなく、私はスラムを彷徨うことになった。

***

そこでの生活は地獄だった。
いつもお腹を空かせ、食べ物を奪うだけの日々。

奪わないと、死んでしまう。
奪ってしまうと、死なせてしまう。
持っていると、殺されてしまう。

人を傷つけ、血脈の呪いに苦しみながら過ごす時間は苦痛以外の何物でもなかった。

生きていたくない、でも死ぬのは怖い。
ぼろぼろになった服を身にまとい、寒さに凍えながら、誰かが迎えに来てくれるのを待っていた。

ある星が輝く夜。
ひどく寒く、空腹に悩み、身体も動かなくなった夜。

明日はもう来ないかもしれない。
このまま眠ると、私はもうこの世にはいなくなるだろう。

そう思わざるを得ない夜だった。

空気は澄み渡り、深い静寂の中。
両親とともに過ごした日を思い返していた。

このまま眠ってしまえば、二人に会えるのだろうか。
私はゆっくりと目を閉じる。
そうすれば、二人の顔を、声を、思い出せるから。

ああ、でも、もうだめみたい。

顔がぼんやりしていて、私はもう、二人を思い出せない。
このまま永い眠りについても、二人には会えないんだ。

お父さん、お母さん、ごめんなさい……

全てを諦め、私は地面に横たわった。
まるで凍っているかのように冷たく、僅かな体温が奪われていく。

今日は、星が綺麗だな…。

仰向けに転がり、空を眺めた。
その時だった。

星の光が、目の前に落ちてきた。

「あぁ、ここにいた」

それはまるで、夜道を導く光。

決して道を照らすことはないけれど、ここではない何処かへ導いてくれる光。

「あなたは、だれ…?」

声の主は答えない。
その代わり、私を抱きしめて涙を流す。

「可哀想なクローカ…生きることを、諦めてしまったの?」

彼女の瞳を見ていた私は頷く気力もなく、その目を閉じることで肯定の意志を見せた。

「…もし、生きていく理由がないのなら」

かつて暁色だった髪を彼女が撫でる。
すると、頭の先からじんわりと暖かくなる。
私は彼女の次の言葉を待つ。

「私の剣に、なってくれませんか?」

剣が何を指すのか分からなかった。
ただ、親のような役割を持ってくれるわけではないことは幼い私から見ても明白だった。

でも、ここから、この暮らしから抜け出せるのなら、私はなんだってやる。
だから私を、あなたのそばに置いてほしい。

僅かな力を振り絞って、私は答えた。

「…いいよ」

一人は、もう嫌だ。
ここにはいたくない。

「私をあなたの剣にして」

この一言が、辛い日々の幕開けだとしても。
傷つき、傷つける日々は変わらないとしても。
それでも、この星の光に導かれれば、生きる意味を見つけられると信じて言葉を紡ぐ。

ふと、これまでの日々が蘇り涙が流れた。

「もう……こんなふうに生きていくのは嫌だよ……」

***

カルファからパテールのスラムへ流れ、リリス王国に身を寄せることになった。

王国では、貴族に相当する騎士階級が与えられることをあのお方から約束された。
そのためには一定の教養や戦闘訓練を修める必要がある。

元々一般市民階級の家に生まれたのだ。
貴族のような所作も言葉遣いも身に付いていないため、初めはそれはもう厳しく叱られたものだ。

「そんなに険しい顔では、令嬢に扮することはできません」

スラムで奪い合いの生活を続けていた私は、笑顔を浮かべることができなかった。

叱責を受けた私は、キッと講師を睨みつけていた。

あのお方でもないくせに、私に命令するな。
私はあのお方の剣に選んでもらえたのだ。
この国で一番強いんだ。

そう思っていたからだ。

しかし、講師はお構いなしに叱責を続ける。
次第に反抗するのに疲れ、彼女に従うようになった。
表情は相変わらず険しいままだが、それを除けば知識も所作も貴族と遜色ない程度にはなった。

「これで今日の授業は終わりです、クローカ」
「分かりました」

簡単な挨拶を交わし、講師が私の元を去ったある日。
部屋にあのお方の影が現れた。

「あなたの瞳はとても美しいわ。
意思が強く、負けることを許さない」

黒い霧を濃くしたような手が、私の頬に触れる。

「けれど、過去の事は忘れてしまいなさい。そうすれば、あなたの日常に太陽の光が差すでしょう」

それはまるで、夜の闇から朝の光へと導こうとするようだった。
私が望めば、王室護衛隊の騎士として仕えることもできる。

けれど、あのお方はご存知のはずだ。
一度闇に身を落とした私が、太陽の元に出られるはずがないと。

あのお方を見据え、私ははっきりと申し上げた。

「太陽の光など必要ありません。私はあなたの剣です。いつ鞘から抜かれてもいいよう、鋭利で俊敏であることが私の生きる意味なのです」

頬を撫でる影が、溜息の音とともに滑り落ちた。

「……その主張も正しいのかもしれませんね」

ほんの一瞬だけ、自らの発言を後悔した。
あのお方を失望させてしまったのかもしれない、と。

「……っ、はい」

唇を噛み締めて肯定すると、あのお方は次の言葉を紡いだ。

「日陰での生活の方が、あなたには合っているのでしょう。今夜、宮殿の月の間に来なさい」
「承知いたしました」

***

その夜。私は月の間を訪れた。
そこは教会のような、青色を基調とした大きなステンドグラスが据えられている。

ステンドグラスに満月の光が差し、銀色を帯びた青い光をたたえている。
その美しさにしばらく目を離せないでいたが、ふと足元にある赤い光に気づいた。

「これは…?」

魔法陣ではなく、カルファで禁じられている呪術陣だ。
しかも、血で描かれているようだ。

流石に戸惑いを隠せない私は、あのお方の姿を探した。
ほどなくして、彼女は音もなく私の背後に現れた。

「クローカ、よく来ましたね」

月の光を受けた彼女は、私に靴を脱ぐよう指示した。
そして、呪術陣の中に入るよう促す。

「あなたは私の最も鋭い剣になると誓ってくれました。
その証として、血の契りを行います」

血の契り。

それは、どんな誓約よりも重く、絶対的な忠誠の証。
血脈の呪いすら跳ね返す強大な力を持つが、
大きな苦痛を与えるものでもある。

それを交わすことで、あのお方の最も鋭い剣になれるのなら。
私は喜んで血の契りを交わす。

小さく息を飲み、靴を脱ぐ。
大理石の冷たさに思わず身体が震えたが、
きゅっと口元を引き締め、一歩ずつ呪術陣へ入っていく。

ひたり、ひたり…と歩を進める。
あのお方の視線に熱が帯びているのを感じる。

そうしてついに、私の指先が呪術陣に触れた。

赤黒い光があがる。
もう一歩、陣の中に入る。
光は集まり、やがて柱になった。

陣の中心にたどり着くと、陣の中で旋風が吹いた。

思わず目を瞑る。
風が身を刻んでいく。
冷たく、激しい苦痛が私を包む。

思わず叫び声を上げるが、それは旋風にかき消されてしまい
あのお方には届かない。

次第に、これまでの私が持っていなかった感情が湧き起こる。

殺戮衝動だ。
喉が、身体が渇いていくのがわかる。

血が欲しい。
鮮やかな赤色をした、温かい血が欲しい。

自らの身体から吹き出すそれは、鉄臭い匂いではない。
真っ赤な薔薇のような、濃く甘い香りがするようになった。

『これが、血の契り…?』

苦痛に涙を流しながら、私はゆっくりと目を開けた。
その瞳に映った光景は、今でもはっきりと覚えている。

ステンドグラス越しに見ていた満月は
その青さを失い、紅の輝きを放っていた。

「月が、赤い…」

幼い頃にお伽話として聞いた、カルファの伝説を思い出した。

カルファの森の力が最も弱まる時、吸血族のみが
紅月を見ることができる。

吸血族は人間では到底敵わないほどの強大な力を持ち、
驚異的な回復力を持つという。
私は文字通り、「あのお方の最も鋭い剣」になったのだ。