追憶

「もう……いないんだ」

クローカの所在を尋ねるニキに、僕は事実を言葉にするしかなかった。

「いない?何かの任務に行ったの?」

モモが愕然とした表情で尋ねる。
少し伏し目がちに僕を見つめていたニキも、顔を真っ直ぐ上げて僕の瞳を見つめる。

血脈の呪いの真実も、血の契りも知らないニキとモモ。
心優しく、いつも僕や友人を心配してくれる。
僕の気持ちを悟られないよう、普段通りの口調で話すよう努めた。

彼女はもう、僕の侍衛ではなくなったこと。
幼い頃に母親から贈られた髪飾りを残して、早朝に王城を出て行ったこと。

「もしかして…昨日の事件と関係があるの?だったら、どうして…?」

濃い桃色をしたニキの瞳には戸惑いや不安、そして心配の光が宿っている。
彼女の望む答えを告げることのできない悲しさともどかしさに、心が溺れそうになる。

柔らかな光が差す窓に手をかけ、小さく息をつく。

「僕も昨日の計画を立てていた時、こうなるかもしれないと思っていたんだ」

窓の木枠を持つ手に力が入る。
心に黒い霧がかかるのが分かる。

……なんて、見え透いた嘘を。

自らの愚かさに、自嘲めいた笑みがこぼれそうになる。

本当のことを話せば、ニキを失うかもしれない。
それは駄目だ。
姉上から託された彼女を危険に晒すわけにはいかない。

それは優しい嘘で、僕に罪はないとクローカは言うだろう。
ニキはあくまでも普通の女の子で、全てを打ち明ける必要などないのだから。

「だけど、僕は彼女を自由にしてやりたかった」

僕は嘘を重ね続ける。

彼女が心の底から笑うのを見てみたい。
凍りついた彼女の心を融かしたい。
その一心でクローカを縛り続けてきた。

この先もずっと、彼女を僕の側から離すつもりはなかった。

けれど、ひとつだけ。
ひとつだけ、ずっと願ってきたことを言葉に紡ぐ。

「僕が見た世界を、その目で見せてやりたかった」

輝きを太陽に譲り、真っ白になる月。
雲間から覗く天使の梯子。
黄金色に輝く霧に包まれた庭園。
朝露がきらめく薔薇園。

全てが黄金色に染まる、僕が一番好きな風景。
そして何より、クローカが一番美しいと思う風景。

僕はクローカに、どうしてもそれを見せてやりたかった。

どこから見る光が一番綺麗か知りたくて、大陸中を見て回った。
いつか彼女を連れて行こうと、気長に構えていた。
この願いが儚い夢で終わるなど、考えもしなかった。

だって、彼女はいつまでも僕の侍衛でいてくれると思っていたのだから。

「残念だけど、彼女は自分の心の声に従って、ついに自分の道を見つけたんだと思う」

窓枠に置く指に力を込める。
微かに軋む音がし、じんわりとした痛みが指先に広がる。

「僕もそれは嬉しいよ」

苦痛を隠し、悲しみと諦めを顔に貼り付ける。
そして再び、偽りの言葉を紡ぐ。

「彼女の決めたことを尊重したいんだ」

どうしてこうも簡単に彼女を裏切ることができるのだろうか。
ニキはクローカと僕を心配してくれているのに。

クローカにまた会いたいと言うニキへ微笑みを向けた。
自分への嫌悪を必死に隠し、いつものように、涼やかに。

そして話題はポポの失踪と「夜明けをもたらす者」の話題へと移った。
ニキとモモと一緒に宝物殿へと移動し、彼女たちは妖精の試練に挑んでいる。

その間、僕は幼い頃を思い返していた。

◆◇◆

クローカは僕にとって、星の導きの下で夜空を歩く三日月だ。

澄んだ青空を宿した瞳。
時折見せる柔らかな光は、初夏の雨上がりの空のようでとても美しい。

夕暮れと夜の境界を糸に紡いだ彼女の髪。
三日月の先のような鋭い眼光を、夜の帳に隠そうとしているようだ。

彼女が歩む道は、星の光が示している。
太陽の光を嫌いながらも、太陽に寄り添って歩みを進める。

そんな彼女と、一度だけ朝の光を一緒に見たことがある。

出会って間もない頃。
どうしても彼女の笑顔が見たくて、毎日質問を投げかけていた。
答えてくれることはなく、いつしか僕も意地になっていた。

ある日、美しいものを見れば彼女も笑ってくれるのではないかと思い立った。

姉上は薔薇園によくクローカを連れて行っている。
きっとクローカもバラが好きなのだろう。
朝の黄金色の光が降り注ぐ薔薇園はきっと見たことがないはず。

クローカに、朝の薔薇園を見せよう。
今思えば随分と短絡的な思考で、僕は計画を立てた。

決行は、雨上がりの未明。

濃い朝靄、雨のしずく、少し冷たい空気が心地よい頃。
世界は僕とクローカの未来を祝福するように、黄金色に染まるだろう。

月がまだ淡く輝く頃、僕は目を覚ました。
眠そうに目を擦るクローカを外に連れ出した。

「僕のお気に入りの景色を見せてあげるよ」

目を輝かせる僕とは対照的に、クローカはとても嫌そうだった。
右手を引かれるがままに歩きつつも、その足取りはとても重い。

「ロイス様、おやめください。城内にお戻りください」

庭園の区画を越えるごとに、クローカは声をかける。
けれど、僕の手を後ろ向きに引くことはなかった。

今思えば、従者として模範的な行動だった。
当時の僕は、拒絶されていないと思い込んでいたのだけれど。

薔薇園の入り口がぼんやりと見えてきた頃。
僕の計画は、予期せぬ来訪者に崩されてしまった。

他でもない、姉上だ。

薄明かりの中、まるで自らが輝いているような姿。
クローカも気付いたのか、歩みを止める。

「……予定変更。とっておきの景色にしよう」

別の方向へ、僕は駆け出した。

その先は、湖のある素朴な庭園。
薔薇園のような整備はされておらず、野生の花々が緑色にアクセントを添えている。
人の手が加えられていない姿は王族にとってはとても珍しく、僕のとっておきだった。

小高い丘を登りついた頃。
視界が黄金色に染まり、湖からの風が吹き上げる。

「ロイス様は…私が、朝の最初の光が好きだとご存知なのですか」

驚いた様子でクローカは尋ねてきた。
もちろん、と笑って見せると、彼女は恥ずかしそうに目を伏せる。

そんな彼女の視界に広がるのは、はらはらと舞う花弁と風に揺れるアネモネ。

「ロイス様、あの花の名は?」
「アネモネっていうんだ。風の花って意味なんだよ」

「風の花、アネモネ……綺麗ですね」

花の名を尋ねるクローカは、珍しく目が輝いていた。
色とりどりのアネモネを撫で、ブーケを作りたいと申し出た。

花を包むためのハンカチを渡すと、彼女は嬉しそうに花を摘む。
その姿は年相応の少女そのものだった。

青と紫のアネモネで小さなブーケを作り、微笑むクローカ。
アクセントに白い花を加えると華やかさが増し、嬉しそうにしてくれた。

「ロイス様。私…この花が好きです。連れてきてくださって、ありがとうございます」

彼女の笑顔を見たのは、これが初めてだった。
その様子が、とても綺麗だと思った。

◆◇◆

ニキ達は、ウェイストランドへ向かうことになった。

嵯耶王の遺作を調べる旅に出る彼女達。
僕は城内の職員に必要な物資を手配させ、見送ることにした。

「じゃあ、私たちはそろそろ行くね。色々と助けてくれてありがとう」
「クローカが帰ってきたら、絶対に教えてよね!!」

朗らかに笑う彼女達につられ、僕も微笑みを見せる。

「そうだね、その時にはまた城へ来てよ。ポポも一緒にね」

ありがとうと手を振りながら、ニキとモモはリリス王城を後にした。

その姿が見えなくなった頃。
僕はふと、あの花畑が気になった。

もしかしたら、クローカがいるのかもしれない。
ありもしない望みに縋りたくなった。

気の赴くままに庭園を歩く。
庭師が樹木の形を整えながら談笑している。
その横を洗濯係が駆け回り、真っ白いシーツが翻っている。

リリス王城の朝の風景だ。

僕の姿に気付いた者たちは声をかける。
手を挙げて応えていると、足取りは軽くなる。

はやる気持ちが僕をそうさせるのかもしれない。

朧げな記憶を辿り、あまり整備されていない道を進む。
庭園には珍しい、小高い丘が見えた。

「確かこの丘を登ると、アネモネ畑に着くんだったっけ…」

子どもの頃はちょっとした山のように思えた。
けれど、今ではちょっと大きめの丘くらいの感覚だ。

夜露に裾を濡らしながら丘を登ると、あの頃と同じ風景が広がっていた。

雲上帝国から贈られた桜の花が舞う。
ゼラニウムやローズマリーが甘く爽やかに香る。
そして一面に広がる、色とりどりのアネモネ。

彼女と見たような、黄金色に染まる景色ではなかったが、それでも綺麗だった。

昔のように、ブーケを作って部屋に飾ろう。
丘を下ろうとしたら、見慣れたハンカチが落ちている。

「あれは…僕が、クローカに…」

ブーケを包むために渡したものだ。

もしかして、と胸が高鳴る。
彼女がここに、いるのかもしれない。

慌ただしく周囲を見回したが、クローカの姿は見当たらない。

ハンカチを手に取ろうと、坂を下る。
すると、クローカにあげたハンカチと…彼女のリボンでできたブーケが置いてあった。

「これは、クローカが…」

あの頃と同じ青と紫のアネモネ、白いクローバー。
彼女もあの日のことを覚えている。
それが妙に嬉しくて、けれどどこか胸が痛む。

このブーケを自分だと思ってくれ、そんなメッセージが込められている気がするのだ。
手に取ろうとすると、その隣に添えられた小さな花束が目に留まった。

彼女の瞳と同じ色をした、とても小さな花。
勿忘草だ。

「私を忘れないで、か…。直接言わないところが、クローカらしいな」

彼女の素直になれないところに、思わず笑い出してしまった。

思い出のブーケに添えられた勿忘草。

彼女はきっと、僕の元に戻ってくる。
そう信じたいと願っていたが、それが確信へと変わった瞬間だった。