序章 思案の海

リリス城内に設けられた一室。

他の部屋とは異なり、華やかで可愛らしい装飾は一切無く無骨な雰囲気の漂う部屋。

そこはマーベル大陸大茶会で名を挙げ、
リリス王国の首相に登りつめたニーズヘッグの自室だ。
城でも執務をする可能性があるため、ロイスが手配した。

しかしニーズヘッグは、一切の装飾は要らないと宣言した。
「せっかく綺麗にしたのに!」と嫌がるロイス王子を追い出し、内装を造り替えさせた。

その部屋はまるで、彼の纏う服を部屋にしたようだ。

真っ白い壁に、黒檀と紫檀で作られた机やベッド。
ベッドには天蓋が取り付けられており、
黒いベルベット生地にバラの刺繍が施されたカーテンがベッドを覆う。

ニーズヘッグは天蓋のカーテンを捲り、仰向けに横たわった。

「…今になって、思い出すとは」

大きなため息とともに目を閉じ、腕で顔を覆う。
それは彼が、思案の海に溺れる合図。

深海に沈むように、過去の風景に想いを馳せる。
静寂の中、闇に身を委ねていると自身が水に沈むような感覚を覚える。

ふと気がつくと、彼は水の中に居た。
呼吸ができることから、それは夢であることははっきりと理解できる。
しかし、水の感触や温度はやけに現実的だ。

遠い水面には光が差しているのが見える。
そして暗いはずの水底には、一人の青年が立っているのが見えた。
水面と同じような、金色の光を纏って。

その青年は、ニーズヘッグもよく知る人物だった。

太陽のような金色の髪。
どこか翳りのある空色の瞳。

自らと対極のような存在である、リリス王国の王子、ロイス。

ナナリー女王の実弟であり、王族として大切に育てられ何不自由ない暮らしをしてきた。
その性格は、一見人懐こいように思えるが、本質は自由で利己主義。

光をまっすぐ見つめているように見えて、実はその影に心を傾けていることもあるようだ。
その影が、どんなに危険なものかも知らずに。

いつもの柔らかい微笑みとは異なり、鋭い目つきでニーズヘッグを見上げるロイス。
その輝きは、ニーズヘッグの闇を照らし、全てを見透かそうとしているようだ。

女王の次にリリス王国を治めるのだという強い意志の現れかもしれない。
もしくは、ただの思い違いかもしれない。
何れにせよ、自らの道を阻む者になることは確かだ。

ゆっくりと思案の底へ落ちながら、彼は一つの結論に辿り着いた。

「あぁ…俺は、彼が邪魔だった」

小さな呟きは、泡とともに水面へと昇っていく。

光の中で生きようとするロイスと、闇に身を落とす自分。
相反する存在であるからこそ、彼を疎ましく思うこともあった。

彼さえいなければ、よりナナリー女王の側に近付くことができる。
そうすれば、彼女から得る信頼はより深いものとなり
リリス王国の実権を握ることは容易いものとなっただろう。

『実力だけでは得ることの出来ないものを持っているからこそ、疎ましく思うのだろうか』
『疎ましく思うからこそ、意識として彼が現れるのだろうか』

「…考えるだけ、無駄か」

思案の一枝を放棄し、水底への沈降に身を任せた。

ニーズヘッグとロイスがお互いに手を伸ばせば届きそうになった頃。
ロイスはふと手を伸ばし、ニーズヘッグに語りかけた。

「君の実力は認めるよ、素晴らしいデザイナーだ」

ロイスが言葉を発する度に、きらきらとした泡が浮かんできた。
まるで彼のように金色に光り輝き、ニーズヘッグの手に触れる。
大きな泡が弾け、細かな泡が彼の周りを漂う。

水底へ沈んでいるはずなのに、その泡がすぐ側を通り過ぎるたびに
青空に輝く太陽に向かって落ちていくような感覚を覚えた。

「だからこそ教えてほしい、ニーズヘッグ。君はなぜ、この国に来たんだ?」
「君がこの国に来てから、姉上は君のデザインに心酔している。
このまま姉上を我がものとし、この国をその手中に収めるのか?」

だんだんと口調が強く、速くなるロイス。

そうするうちに、ついにニーズヘッグは水底へと降り立った。

煌々とした光を宿すロイスと、どこまでも深い闇を宿すニーズヘッグ。
二人は対峙し、辺りは静寂に包まれた。

先に口を開いたのは、ロイスの方だった。

「…君はいったい、何者だ。ニーズヘッグ」

しばらくの間、ニーズヘッグは沈黙を貫いていた。

「ナナリー女王陛下に忠誠を誓ったのではないのか」
「女王陛下…姉上は、君のデザインするドレスが好きだと言っていたのに。
君は姉上を裏切るのか」

詰め寄るロイスの様子に、ニーズヘッグは小さく溜息をついた。

「そのようなご様子では、次期国王は務まりませんよ。ロイス殿下」

そして、ロイスへと手を伸ばし、はっきりと言い放つ。

「私から貴方に申し上げることはございません」

一瞬、ロイスの表情が憎しみで歪むのが見えたような気がした。
しかしそれを確かめる術はない。

ニーズヘッグの指先から、まるでガラスのヒビのような亀裂が走った。
パキパキと音を立てて、ニーズヘッグとロイスの世界は分断されていく。

それはまるで、厚いガラスが銃弾を受けたようだ。

亀裂の向こうで、ロイスの世界がガラガラと崩れ落ちた。
厚く、流氷のように大きなガラスは海に溶けていく。

いつしか周囲は闇に包まれ、ニーズヘッグだけが水底に取り残された。

「……夢か」

瞬きをしたかと思うと、そこはもう思案の海ではなかった。
見慣れた自室の風景が広がり、窓に映る星が時の経過を自覚させる。

「あの頃のことを、少し思い出してしまったようだ」

魔法瓶からコーヒーを注ぎ、今度は記憶の海へと歩を進めた。
すぐ側には「機密事項により融解破棄」と押印された書類がファイリングされていた。