Rhodanthe

カルファ王国に春が訪れようとしている頃。
霧之國重工カルファ支社、社長室宛に一通の手紙が届いた。

「社長、お手紙が届きました」

秘書が静かに告げる。その手には淡い桃色の封筒が乗せられている。
どうやらリリス王国からの手紙のようだ。

「リリス王国から…?しかもこの印章、政府高官用のものですわね」

身に覚えの無い印象に首を傾げながら、開封すべく裏を向けた。
そこには差出人名が書かれている。
その名を見た瞬間、彼女…エッダ・ヒャルタドッティルは驚きのあまり手紙を落としてしまった。

「社長?どうかなさいましたか?」

秘書は優美な仕草で手紙を拾い、差出人を確認する。
そこには無骨さの残る流麗な字で「リリス王国首相 ニーズヘッグ」と記されていた。

「リリス王国に渡ったとはお聞きしていましたが…首相になられているのですね」

眉間に皺を寄せながら、秘書はエッダへ封筒を手渡した。

エッダは愛用のペーパーナイフで封を切る。
中には封筒と同じ淡い桃色の便箋と、銀色の装飾が施された黒いカードが入っていた。

「これは…リリス行き列車の乗車券、ですわね」

リリス王国の雰囲気とは明らかに違うカードには、行先とエッダの名前が刻まれている。
表面にはリリス王国の紋章が金色で、裏面にはニーズヘッグ氏自身の紋章が銀色であしらわれており、彼がリリスの官僚として実力を発揮していることが窺える。

薄桃色の便箋を開くと、可愛らしい花模様には似合わない書体で彼の近況とリリス王国でのパーティーへ招待したい旨のメッセージが綴られていた。

「社長、リリスへ行くのですか?」

秘書の問いかけに少し考え込む様子を見せたが、しばらくして彼女はうなずいた。

「ええ、しばらくリリスへ行って参りますわ。その間の業務は…そうね、貴女にお任せいたしますわ」

留守番になってしまった秘書は残念そうな表情でお辞儀をし、部屋を出た。

「あの頃から変わっているのかしら。カードのデザインからして、デザインのセンスは変わっていなさそうだけれど…」

小言を呟きながら、旅の準備を始めた。

リリス王国行きの列車に乗り、お気に入りの本を開く。
彼女の友人であるフレイヤ・ルーテルスドッティルが勧めてくれた、ウェイストランドの古い神話を翻訳したものだ。

一つ一つの言葉を目で追ううちに、ふと彼女もリリスに招かれていないか気になった。

「行けばわかりますわね」

ぼそりと呟いて、視線を本へと戻した。

何冊目かを読み終わった頃、列車はリリス王国の王都へと到着した。

「ここがリリス王国…。確かに重工のデザインするアイテムは、この国には似合いませんわね」

街中が童話のような雰囲気を持つリリス王国。
平和で、可愛らしく、穏やかな雰囲気が漂っている。

幼い頃の彼女であれば、一度は憧れたかもしれない風景が目の前に広がっている。
カルファのシックなドレスを身に纏うエッダは、さながら童話に登場する女王や魔女のようであった。

女王よろしくふわりとドレスの端をつまみ、列車を降りる。

入り口の外に広がるのは、穏やかながらも活気のある往来。
こちらを見る視線には好奇心と親愛が入り混じっている。

あのニーズヘッグも、この空気を求めてリリスへ映ったのだろうか。
思わず笑い声を漏らしそうになったが、「それはあり得ませんわ」とほんのしばらくだけ目を閉じた。

駅を出ると、弱々しい少女の声がこちらに向けられているのを感じた。

「あの…すみません。その…ヒャ、ヒャルタド…。あ、ごめんなさい」

自分の苗字を呼ぼうとしているのだろうか。
この国にはない発音なのだろうか、どうもうまく声が出せないようだ。

「ええ、ヒャルタドッティルですわ。貴女は?」

少女というには大人びた制服を見に待とう彼女は、名前を呼べなかったことを叱責しないエッダに少しほっとした様子を見せる。
柔らかな微笑みをエッダに向け、軽くお辞儀をした。

「私は…あの、リリス王国の首相秘書を務める者です。ジェーンとお呼びください」

リリス王国の首相秘書。
それはつまり、この国でニーズヘッグに最も近い人物だ。

どう見ても仔兎のような彼女が、あのニーズヘッグの右腕として働いている。
きっと何か思惑があるのかもしれない。

エッダが考え込んでいると、その雰囲気にいたたまれなかったのか、慌てた様子で言葉を続けた。

「あ、あの!私は確かに秘書ですが、首相にご迷惑をおかけしているばかりなので…。その、そんなにじっくり見ないでください……」
「あら、失礼いたしましたわ。貴女のように可愛らしい女性を秘書に選ぶとは、ニーズヘッグ首相も隅に置けませんわね」

ジェーンに詳しく話を聞いてみると、リリスに招いた目的は「羽休め」だそうだ。
NORNがあんな結果になってしまったことに、本当は彼自身も罪悪感を持っていたのだろう。

穏やかなリリスで新しいコーデに触れ、新鮮な気分を味わって欲しい。
事情を知らないけれど、自分が生まれ育ったこの国を楽しんで欲しい。
その一心で案内役を買って出たらしい。

たどたどしくも必死に言葉を紡ぐジェーンはとても可愛らしく、同性ながらも「守ってあげたい」と思うほどだ。

二人で話をしていると、一編成の列車が到着した。
近代的な装いの列車は、リリス王国のものではなさそうだ。

「あ、到着したようですね」

ジェーンがエッダ越しに駅の入り口を見る。
それに合わせてエッダも振り向くと、よく見知った顔の女性がこちらへ向かってきている。

NORNでも苦楽を共にした、フレイヤ・ルーテルスドッティルだ。

「あら、フレイヤもですの?」
「エッダじゃない。ノーザンに行った時以来ね」

まるで1週間前にあったかのような二人の雰囲気に、ジェーンは少しだけ取り残された気持ちになったようだ。おずおずと二人に声をかける。

「あの…お二人は、その…仲良しなんですか?」

「ええ、フレイヤとは学院の頃からの付き合いですのよ」
「あまり頻繁に会うわけではないのだけど、久しぶりって雰囲気にはならないわね」

フレイヤのエッダより気安い話し方は、ジェーンに安心感を与えたようだ。
自己紹介と、リリスに招いた理由を簡単に説明した。

「いろいろ考えても仕方ないわね。とりあえずお茶に行きましょうよ」

フレイヤの一言で、3人はカフェに向かった。

「素敵なカフェね、おばあちゃん魔女がいそうな感じがするわ」
「フレイヤ、優しそうな雰囲気なのは分かりますが…いくらなんでも口調が砕けすぎですわよ。ジェーンさんは首相秘書でいらっしゃるのだから」

いつものようなやりとりを続けていると、ジェーンはくすくすと笑い出した。

「お二人は本当に仲が良いんですね。羨ましいです」

彼女は甘く温かいカフェオレを手にしている。
ニーズヘッグがコーヒーを好んで飲んでおり、ジェーンも同じものを口にしたくてカフェオレを選んでいるらしい。

耳の先を赤くしながらジェーンが話し始める。

「何とも微笑ましい秘書ですわね。ニーズヘッグ氏はとても厳しいお方のはずですが…」
「はい、私いつも失敗ばかりで…お叱りを受けてばかりです。でも、首相はとてもお優しいですよ」
「そうなの?ちょっと意外だわ…」

「実はこのカフェ、首相と視察したんです。リリスの主要産業は観光ですから、観光客に人気の場所を知りたいと仰って…」
「その時には何をお召し上がりになりましたの?」
「えっと…私は薔薇のパルフェを。首相はエルダーフラワーのソルベをお召し上がりになりました」

「ニーズヘッグさんって、ソルベも食べるのね」
「フレイヤ、流石に失礼…ふふふ…ソルベ、ソルベを…」
「エッダもなかなか失礼よ」

二人の視察話に花が咲く。

気づけば空は茜色に染まっている。
次の日も三人で観光する約束をし、ニーズヘッグが手配したというホテルにエッダとフレイヤは向かった。

城前広場でジェーンと合流したエッダとフレイヤは、薔薇の形をした銀のペンダントをジェーンから渡された。

「これは城への入場許可証です。残念ながら城内に入ることはできませんが、庭園を自由に見て回ることができます。私の権限で発行できるのがここまでなんです」

しゅんとした表情でジェーンは続ける。

「本当は首相に発行していただこうと思ったのですが、そうなると城門を首相も一緒に通らないといけないそうで…」

昨日の会話から、エッダもフレイヤもニーズヘッグに好印象を抱いていないと判断したのだろう。ジェーンが必死に二人のことを考え、彼と鉢合わせないよう気遣っての行動だった。

「リリスの庭園は有名なのよ?自由に見て回っても良いなんて、それだけでもありがたいわ。ね、エッダ」
「そうですわね。この辺りはカルファと似た気候のようですし…是非参考にさせていただきたいですわ」

二人は揃って許可証を首に下げ、城門へと向かっていった。

ジェーンはよく庭園を散歩しているそうで、どこにどのような庭園があるかとても詳しかった。

王族が守り続けている薔薇園。
リリス国民に長く愛されているハーブ園。
庭師の遊び心溢れるデザインに整えられた木々。

どれもノーザンはもちろん、カルファやパテールにはない趣向を凝らした庭園だ。
心なしか、解説するジェーンの声も自信に満ち溢れている。

「あの薔薇園はナナリー女王陛下がお造りになりました。白薔薇を基調にしたアーチの先には真っ赤な薔薇だけが植えられていて、まさに秘密の花園を薔薇で表現されています」
「淡い紫色と白の薔薇が植えられいる薔薇園は、ロイス王子の薔薇園です。白薔薇はご自身を、紫色の薔薇は王子の護衛を務められている方をイメージされているそうです」

「ロイス王子にとって、護衛の方はとても大切なのね」
「ええ、いつもその方のドレスをデザインしては突っぱねられているそうです。ご公務中にまで愚痴をおっしゃるのですよ」

一国の王子の可愛らしい一面に、エッダとフレイヤはリリスの国民性を垣間見た気がした。

薔薇園をさらに先に進むと、これまでの雰囲気とは一変し、幽玄な雲上風の庭園が現れた。
隣国である雲上帝国との信頼の証として造られた庭園は、ジェーンの密かなお気に入りだそうだ。

「静かに考え事をしたい時に、ここに来るんです。ここに来るのは私と…時折首相が私を呼びに来てくださるくらいです」
「ではニーズヘッグ氏とジェーンさんの秘密のデートスポット、ですわね」
「で、デート!?エッダさん、何をおっしゃるんですか!!」

三人の柔らかな笑い声につられるように、池を彩る睡蓮は優しく揺れていた。

エッダとフレイヤがリリス王国を出発する日が訪れた。
二人は名残惜しそうに、ジェーンは涙を流しながら駅のホームに佇んでいる。

「また、リリスに…遊びに、来て…くださ…」

ぐすぐすと鼻をすすりながら、ジェーンは最後の挨拶を贈る。

「ええ、今後はぜひ仕事でもお邪魔したいわ。その時はまたよろしくね」
「とても楽しかったですわ。お礼に何か、わたくしがお力添えできることがありましたら遠慮なくご連絡くださいな」

二人は仕事用と個人用、二つの名刺をジェーンに差し出す。

「ほんとうに、ありがとうございます…!」

私からはこれを、とジェーンが差し出したのは薔薇の花束を持った兎の縫いぐるみだ。
エッダの花束は濃い紫の薔薇をベースに、フレイヤの花束は青い薔薇をベースに作られている。その周りには、白いローダンセの花が添えられていた。

「お二人の色をイメージして作りました」
「ありがとう、とっても可愛い。薔薇と…この白い花は?」

「ローダンセ、ドライフラワーにしても色が変わらない花です。リリスでは薔薇と一緒に贈ることで、終わりのない友情の証とする風習があるんですよ」
「素敵ですわね、リリスに来て…貴女にお会いできて、本当に良かったですわ」

「私も、エッダさんとフレイヤさんにお会いできて嬉しいです。この花束がドライフラワーになってしまう前に、リリスに来てくださいね」

ジェーンの目元と鼻は赤くなってしまい、さながら本物の兎のようだった。

パテール行きとカルファ行き、それぞれの列車が汽笛を鳴らす。
いよいよ別れの時だ。

三人で握手を交わし、エッダとフレイヤはそれぞれの列車に乗る。

「きっとまた、来てくれますよね」
「もちろん。それにパテールにも招待するわ。待っていてね」
「カルファにもお招きいたしますわ」

汽笛がなり、扉が閉まった。
エッダとフレイヤは、扉の小さな窓からジェーンに手を振る。

「さようなら、どうかお元気で」

一人ホームに残されたジェーンは、列車が遠く見えなくなるまで手を振り続けた。